膝を狙い撃つ

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『ハウルの動く城』ブスな女の子が美しくありたい苦しみから逃れる話

 

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ハウルの動く城』で、ソフィーの気持ちを少々卑屈に解釈したい。卑屈な青春を送った私の感想なので、ちょっとばかし失礼かもしれないが書きなぐる。

 ソフィーは筋金入りの卑屈な女の子として描かれている。原作でも映画でも、帽子屋の長女として、帽子屋を継ぐのが自分の人生なのだと諦めていて、けれど達観しきれていない。妹たちのような華やかさや美しさに憧れているが、自分はそうではないと思っている。

 荒れ地の魔女に呪いをかけられて老婆にされた後、ソフィーが生き生きするのはなぜか。美しくなくても、老婆なら蔑まれることはないからだ。妹の気を惹こうと必死な漢たちの隣にいて、卑屈にならないわけがない。しかし老婆になって初めて家を出て、おばあちゃんとして街の男性にいたわられる。極論を言えば、若いブスよりおばあちゃんのほうが生きるのは楽なのだ。彼女は若い故に美しくありたいという苦しみから、老婆になったおかげで逃れられたのだ。だからソフィーは元気になり、景色にはしゃぎ、少々の厚かましさをもって、城で楽しく生活する。

 ハウルが髪の色を染め損ねてかんしゃくを起こしたとき、ソフィーは「私なんか美しかったことなんて一度もないわ」と叫んで号泣する。それまで慌ただしさや、老いた体への順応ですっかり忘れていた「美しくありたいという苦しみ」を、よりによって心を奪われたハウルに思い出させられてしまったのだ。これがどんなに悲しいか。好きな男性に悪意無く処刑宣告を言われるようなものだ。ソフィーの立派なところは、そんな仕打ちを受けても八つ当たりしたりせず立ち直れるところである。

 さて王宮来訪からの逃亡劇からの引っ越しの後、ハウルはソフィーを花畑へ誘う。戦う理由を隠すハウルに、ソフィーは「私なんか綺麗でもなくて、掃除くらいしかできないけれど、でもあなたの力になりたい」という感じのことを言う。この言葉は特に深い意味を込めたわけではなくて、自分を美しいとは思っていない本心がサラッとでてしまっただけだと思われる。しかしここでハウルがソフィーの地雷を踏む。「ソフィー、君は綺麗だよ!」

 残酷な台詞である。ハウルはソフィーの若い姿が見えているので、あくまで本心から綺麗だとほめたつもりだったのだろう。しかしソフィーからしてみれば、かんしゃくのときの「美しくなければ生きていたって仕方がない」のほうが本心の言葉で、君は綺麗だよなんて言われたところで、ハウルの優しさを感じて余計みじめになるだけだ。そして「年寄りの良いところは、失うものが少ないことね」と、自分は美しくなれない年寄りなのだ、自分は美しくないのだということを、自分自身に言い聞かせるようにつぶやく。

 しかし空襲のとき、ハウルからの「守りたいものができたんだ、君だ」という本当の愛の言葉を受け、美しくない自分でも愛することを表に出してもいいのだと、ソフィーは許されたような気持ちになったのだ。その後の行動力は目覚ましく、ハウルのために城をぶっ壊し再構築し水をぶっかけ過去に行き帰還し、心臓を取り戻したハウルの「ソフィーの髪の色、星の色に染まっていて綺麗だよ」という言葉を素直に受け取ることができたのだ。

 つまりはこの物語は、ソフィが美しくありたい苦しみから、愛によって許されて、美しくなるというシナリオなのだ。

 

 こんな解釈どうかな…私は卑屈すぎるかもしれない。愛っていいな。おわり